名誉教育顧問 大黒 摩季先生 × 名誉学校長 湯川 れい子先生 × 卒業生/名誉教育顧問 松岡 充さん

あきらめずにノックし続ければ、
いつかドアは開く

 名誉学校長の湯川れい子先生と、名誉教育顧問でもある大黒摩季先生、松岡充さん。様々なジャンルでトップランナーとして走り続ける三人だからこそ、語れることがあります。音楽を愛しリスペクトし続ける、そんな三人の言葉に耳を傾けてください。

子供の頃は、
ピアノが話し相手でした

湯川:音楽業界を目指している人で、「大黒摩季を知らない」「松岡充を知らない」という人はいないと思うけれど、最近の音楽シーンのサイクルはとても速いでしょう。

大黒・松岡:そうですね。

湯川:なので、お二人がどういうキャリアを積んできた人なのか、この機に伺っておきたいの。大黒さんは子供の頃から、音楽が好きだったのかしら?

大黒:はい。お肉屋さんの娘だったうちの母が、家業の手伝いで忙しい中、近所の教会で流れる賛美歌にとても癒されたんですって。その頃から「娘が生まれたらクラシックピアノを習わせたい」という夢を抱いていたんです。それで私が3歳の時に、アップライトのピアノを「誕生日10年分ね!」と渡されて(笑)。私は私で、幼少の頃は口が遅くて癇の強い子だったんです。だから、ピアノが話し相手でした。でも音楽ができると、話さなくても友人ができるんですよね。だからそのまま、3歳からずっと音楽漬けです。

湯川:じゃあ、譜面も読めたのね?

大黒:5〜6歳から読めました(笑)。

大黒 摩季先生 × 湯川 れい子先生 × 松岡 充さん

松岡:すごいですね、そんなに早くから譜面が読めたなんて!

湯川:それって、すごく大事よね。最近、あるところでイメージソングを募集したの。そうしたら素晴らしい作品はたくさん集まって来たのだけれど、きちんとした譜面を書ける人って、そんなに多くないのよね。

大黒:譜面は世界の共通のルールですから、海外レコーディングの時に外国語が話せなくても、譜面で会話できるんですよ。「音楽は世界の共通語」と言われるのは、それもあると思います。

松岡:大黒さんのレコーディングは、自分で自分の譜面を書くんですか?

大黒:曲を書いた段階で、メロ譜※1は書きますね。そこから、コーラスやギターリフなどのアレンジを加えます。

松岡:素晴らしいですね。僕らはバンドだから、譜面のない世界ですよ(笑)。タブ譜※2からスタートして、あとはセッションで曲が生まれていくんです。

大黒:それも大丈夫です。また別の音が生まれますよね。

湯川:やっぱり、基本がちゃんとできていることはとても重要よね。底辺がしっかりしていると、ピラミッドの頂点がより高くなる。私はそういう人たちをたくさん見てきているから、大事なことだと思うの。

大黒:いきなり「交響楽団をバックに、ドレス着て歌いなさい」と言われることもありますからね。周りは私がクラシック上がりだと知らないから心配するんですが、私は音の渦に入れることがとても幸せなんです。

湯川:今、オケ譜※3を見て歌える人は、トップの歌い手さんでもなかなかいないと思うわ。

大黒:譜面を見て、アレンジャーや指揮者の人とやりとりできる喜びったら、他にないですよ。

湯川:そして大黒さんは、東京に来てからの下積みも長かったんでしょ?

大黒:6年ですね。最初はバイトしながら、楽器屋さんに「バンドメンバー募集」と連絡先を書いた貼り紙をしたんです。今考えると、個人情報全開で恐ろしいですよね(笑)。それでバンドを組んで、いろんなオーディションを受けましたが、なかなか受からなくて。同時に私個人のデモテープを作って、各方面にばらまいたんですよ。そうしたら何社かに受かって、その中にビーイングという会社があり、あの頃はまだ一番小さな所でしたが自ら面接に来てくれたプロデューサー長戸大幸さんの強い目が好きで、「ここにしよう」と。

湯川:今となっては、長戸さんはすごい方ですけれど、その頃はまだこれからという時代ですものね。

大黒:ビーイングも小さな音楽制作会社でした。長戸さんに「今の君に光はないけど、この先には期待している。だからうちのバックコーラスで経験を積まないか」と言われたんです。それで「ひとまずやってみよう」となったんですが、この“とにかく経験してみる”というスタンスのおかげで、今も続いている波に乗れたんだと思います。

湯川:バックコーラスから、どうやってヴォーカリストに転身できたの?

大黒:バックコーラスは楽しかったんですけど、「このままじゃヤバイ」とアメリカへ武者修行に行ったんですよ。あの国はすごくて、本当に刺激を受けました。イーストビレッジのセッションバーで、ブルースをスキャットで歌うことになったんです。その時に、「お客さんが一人も増えなかったら、バックコーラスで生きていこう。もし一人でも増えたら、私はヴォーカリストとしてやっていこう」と自分に賭けたんです。目をつぶって、ひたすらスキャットで歌って。そして目を開けたら、客席は満員。「あ、私はやれる」と思った瞬間でした。

湯川:そんなすごい経験をして日本に帰国したら、怖いものなしじゃない?だからこそ、今日まで来られたんだろうな、と思いますよ。

  • ※1メロ譜→「メロディ譜」のこと。歌とメロディとコードネームが書かれた楽譜。
  • ※2タブ譜→ギターが押さえる指板のフレットを番号で表して譜面にした、ギター専用の楽譜みたいなもの。
  • ※3オケ譜→オーケストラの演奏用の楽譜。パートごとのパート譜が全部そろった状態のものを指す。

名立たるレコード会社を
アポなしで回ったことも

大黒 摩季先生 × 松岡 充さん

湯川:さて、お待たせしました、松岡さん。松岡さんの場合、全然違うキャリアと苦労を経験してきましたよね。

松岡:そうかもしれませんね。

湯川:そして、本校の卒業生でもあるのよね。

松岡:そうなんです。

湯川:最初からバンドを組んでいたの?

松岡:僕が育った兵庫県は、音楽の環境があまり街の中になかったんです。ライブハウスも身近じゃなかったですし、昔バンドをやっていたという小さなバーの店主が、最小限の設備でギターを弾かせてくれたくらいで。だからバンドをやろうという発想自体、なかったですね。高校生の時、うちの街で初めてバンドを組んだんですが、みんなもアマチュアバンドを見るのが初めてだから、もの珍しくてキャーキャー言ってくれて。それで有頂天になっちゃって、「これは大阪へ行ったらデビューできるな」と(笑)。そんな時期にこの学校と巡り会ったので、サウンドクリエイターコースに入学し、音楽をどうやって創っているのか基礎を学んでから、表舞台に立とうと思ったんです。そうすれば、オーディエンスに届けるものをよりクオリティ高くできるだろう、と。

大黒:昔から、意識が高かったんですね。

松岡:いえいえ。それで、この学校で2年勉強したんですが、当時の大阪のライブシーンは、縦社会が厳しくて。ある時、トイズファクトリーから「オムニバスCDに参加しませんか?」と声をかけてもらったんです。このオムニバスに参加した何組かデビューが決まるようなCDだったんですよ。これで「イケるかな」と思ったんですが、僕らのバンドに声がかかったせいで落選したバンドもいて…。縦社会もありますし、一旦解散を決意して。「好きな人と好きな音楽が自由にできるバンドを作ろう」と考えて、SOPHIAを結成しようと。その後、僕は東京に通って、いろんなレコード会社をアポなしで回りました。「SOPHIAです、聴いてください」って、続けましたね。

大黒:私もやりましたよ〜。プロデューサーのデスクにあるデモテープの山の一番上に、自分のテープを置いてきたりして(笑)。

松岡:受付でずーっと待たされたこともありましたね。「少々お待ちください」と言われたまま、誰も出てこない。どんどんみんな帰っていって、受付のお姉さんまで「この人、まだ待ってるの!?」という顔をして帰っていきました(笑)。

湯川:待たせていた人は、結局降りてきてくれたの?

松岡:いいえ(笑)。

湯川:でも、そうやってノックしてノックして……、あきらめずにノックし続ければ、いつかドアは開くのよ。ただ、そこまでの野心がある人は、なかなかいないわね。みんな、とつぜん彗星のように現れてヒットを飛ばしたんだ……と勘違いしているけど、実は誰もが努力している。そんな松岡さんでも、30歳を超えたところで分岐点があったと思うのよね。「なんでもできる」という自信がへし折られて、ガーンと来た瞬間があるでしょう?

松岡:ありますね。30歳を超えて、ちょうど月9ドラマの『人にやさしく』に出演したんですよ。初ドラマにして月9だったので、俳優色が強くなった時期があって……。そうなると、バンドのファンが、アンチに回っちゃうという経験もしました。「松岡はドラマに身を売った」と(笑)。

大黒:そういうつもりじゃないんでしょ?

松岡:はい。本当のことを言うと、デビュー当時からドラマ出演のオファーは何度もあって、その度にお断りして来ました。最初は「バンドを軌道に乗せなくちゃいけない」という気持ちしかなかったですから。

湯川:松岡さんはフロントマンだから、バンドメンバーの人生も背負っているようなものですものね。

松岡:そうなんです。全都道府県ツアーなどバンドとしての活動も出来てきてましたし、せっかく月9という大きな舞台だしというのもあって、出演させて頂きました。そこから俳優として活動の幅が広がって行きました。

大黒:演技ができるのは、すごいですよ!

松岡:いや、必死でしたよ。月9を目指して俳優になった方もたくさんいらっしゃいますし、失礼にならないようにと。でもバンドでライブをやり続けてきた経験から客席との距離感や、カメラの向こう側の人がどう見ているか考えられたんです。だから大黒さんも絶対、演技をできますよ。

大黒:私はどちらかと言えば、表に出るより制作サイドに回りたいの(笑)。

湯川:以前、欧陽菲菲さんの曲を頼まれて、私が詞をスケッチしてある程度まで書いたところで、摩季さんに作曲をお願いしたことがあって。完成作品を見たら、すぐにそのまま歌える形で、仕上げてきてくださったのよ。それもゾクゾクするような楽曲でした。

大黒:私の中ではヴォーカルワークに対する熱よりも、クリエイティブな作業への愛のほうが温度が高いんですよね。

点と点の活動を線でつなげて
学生に渡したい

湯川 れい子先生 × 松岡 充さん

湯川:松岡さんの今の主戦場はミュージカルだけれど、それまでやってきた発声とは、全く違ったでしょ?

松岡:初めてやったグランドミュージカルが『タイタニック』(2007年初演、2009年再演)だったんですけど、譜面だけで10センチの厚さがあるんですよ。アンサンブルの方達は楽譜を初見で歌えちゃうんです。そんな中にポンと投げ出されて、「主役です」と言われても、楽譜が全く読めないから本当に困って。そしてれい子先生がおっしゃった通り、ロックヴォーカリストとしての発声法と真逆のやり方を、出演者全員がするんですよ。従来通りの発声法をしていたら、すぐ喉がやられました。「なんで他の人たちは、こんなに声を響かせられるんだろう」と考えて、これは一度、0に戻さないとダメだと。それまでバンドのフロントでやって来て10年、プライドもありました。でも、イギリス人の演出家に「松岡充は必要ないんだ、この役の人がほしい」と言われて、考えを変えました。

湯川:そこで生き残れたからこそ、今があるんだものね。

松岡:いい経験でした。身体の作り方、声の出し方、全てを変えて。

湯川:身体はどう変わったの?

松岡:どういう状況においても発声できて、物語をきちんと伝えられるようにインナーマッスルをつける身体作りをしました。連続する公演を続けるために、声帯を守らなきゃいけない。SOPHIAで全都道府県をまわるツアーを敢行した時は、1ツアーで72本のライブをやったんですが、その時も大変でしたけど、何よりロックは気合いでできるんですよ。「声は出ないけど、心は届けるぜ!」みたいな(笑)。でもグランドミュージカルでは、絶対にそんなことはできませんから……。

湯川:しかも甘い声を必要とされるしね。

松岡:さらに、舞台中に大絶叫するシーンもあったんですよ。

大黒:絶叫は一番、声帯を使いますもんね。

松岡:だから、今も筋肉を意識したストレッチは毎日やっています。

大黒:私も授業で、必ずストレッチは学生にやらせていますね。ヴォーカリストには必要な運動だから。

湯川:私が思うに、これからは“いかに生で見られるか”という時代になっていくと思うの。これだけ音楽が簡単に、コピーできるようになってしまった時代だからこそ。

大黒:でも私たちからすると、いい原点回帰かもしれませんね。

湯川:本当に、本物しか生き残れない時代になっていくと思う。

松岡:今は曲作りのソフトがあれば、譜面も全部書いてくれるんですが、結局パソコンが書いているから、間違いだらけなんですよ。結局、どれだけ進化しても、やっぱり機械ができる限度はあると思うんですよね。

大黒:細かいニュアンスを打ち直す位なら、自分で書いた方が速い! と思うこと、あるもの。

湯川:今はますます機械が便利になっている分、生でできることの魅力も大きくなっていると思うの。そして、まさに生の舞台を見せるミュージカルの世界で、松岡さんは活躍していらっしゃるんですものね。実際、松岡さんの世代の役者さんで、ミュージカルができる人って、とても少ないでしょう?

松岡:そうですね。よく言われます。

湯川:今後、いろんな舞台を経験できる方向へ、行けるじゃない。

大黒:すごい、頑張って!(拍手)

湯川:だから、これから先がとっても楽しみなの。

大黒:私がいつか、原作を書いて舞台をやったら、主役を演じてね。

湯川:摩季ちゃんはそういう風に、クリエイター志向の強い人だけど、うちの学生に今、教えているわけでしょ。教えることは楽しい?

大黒:楽しくなっちゃって、困ってます(笑)。昔は、「私もまだ教わりたい立場なのに」と思っていたんだけど……、自分が使ってきたスキルを学生に渡すと、ピカピカのゲームソフトをもらったような顔をするんです。そうすると、素敵なリサイクルができているんだな、と思います。

松岡:例えば、どんなことを教えているんですか?

大黒:「三点方式」と私は呼んでいるんですが、まず10年後の自分を決めるんです。今考え得る、一番大きな夢を。そこから5年後、今と逆算していくんですよ。それで、「今は何をやらなきゃいけないの?」と彼らに聞きます。今すぐバンドを組むべきだし、バンドじゃないのなら曲を作ったりアレンジをしてくれる子と友達になるべき。そうして一つ教えてあげると、残りをちゃんと自分たちで組み立ててくれるんです。それを見るのが、とっても面白い。

湯川:目の輝きが変わってくるよね。

大黒:そう、スイッチが入った瞬間は、みんなキラキラしてる。その瞬間が見たくて、私の持っている全てをあげたくなっちゃうんですよね。そしてもし、私の教え子とフェスとかで共演することになったら、絶対に負けないけど……(笑)、いえ教え子になら、負けてもいい。そういうクオリティの高い、ゴージャスな勝負がしたいんです。

松岡:僕もこの学校の教育顧問にならせて頂いて、本当に嬉しいんですよ。僕自身、ロックバンドからスタートして、今は演技もやらせてもらっているけど、この点と点の活動を線でつなげて、次世代の学生に渡したいんです。今は、この学校でいろんなことが学べるだけに、学生という点もエンターテイメントの線でつなげられたらいいな、と思うんですよね。しかも5年後には、オリンピックが東京に来ることですし。

湯川:とてもいいことを言ってくださいましたね。あのね、この学校ができて30年近く経ちますが、いろんなフィールドで卒業生と会うのよ。

大黒:れい子先生、アメリカのセントラルパークで「湯川先生!」と卒業生に声をかけられたんですものね。

湯川:そうなの。フランスのエレベーターでも、声をかけられましたよ。今、うちの卒業生はこの業界に、本当に大勢いるわ。それこそ東京五輪とう大舞台に関わることになる卒業生も、たくさんいるんじゃないかしら。

松岡:卒業生みんなで大きなラインを作って、東京オリンピックに携わることができたら、すごいことですよね。

大黒 摩季先生 サイン

名誉教育顧問 大黒 摩季先生

大黒 摩季先生

profile

1992年 「STOP MOTION」でソロデビュー。 CM曲に起用されたシングル「DA・KA・RA」が110万枚の初のミリオンヒットを記録。以後、「チョット」「あなただけ見つめてる」「夏が来る」「いちばん近くにいてね」などシングルヒットを輩出し続け、アルバム「LA.LA.LA」は161万枚、ベストアルバムの「BACK BEATS#1」は累計300万枚を超えるメガヒット作品となる。「熱くなれ」が第10回日本ゴールドディスク大賞 “Best 5 Artist of THE YEAR” を獲得。以後、アーティスト活動・LIVE活動を続ける傍ら、スポーツ振興活動・国歌斉唱、北海道内での地域活性・社会貢献活動をはじめ校歌の寄贈、教育現場での講義活動など、活動の幅を更に広げ進化し続ける日本を代表する女性シンガーソングライターの一人。

松岡 充さん サイン

卒業生 / 名誉教育顧問  松岡 充さん

松岡 充さん

profile

1994年にロックバンド 「SOPHIA」を結成。1995年メジャーデビュー。バンド結成以来、一年も欠かすことなく毎年全国ツアーを行い、これまでにシングル40枚、アルバム20枚をリリース。約200曲にも及ぶ全楽曲を作詞し、多くの代表曲を作曲。2013年8月の日本武道館公演をもってバンド活動を休止。俳優としても目覚ましく活躍し、その演技力を高く評価されている。出演代表作には「人にやさしく」(CX)、舞台「リンダリンダ」「キサラギ」、Vシネマ「仮面ライダー エターナル」など。他アーティストへの楽曲提供やプロデュースワークも多く、写真集出版・小説執筆・プロダクトデザイン・番組司会などヴォーカリストというカテゴライズを超え、多彩な分野で活動するクリエイティブアーティストである。現在は新バンド「MICHAEL」で活動中。

湯川 礼子先生
湯川 礼子先生 サイン

名誉学校長 湯川 れい子先生

profile

音楽評論家・作詞家。早くからエルヴィス・プレスリーやビートルズを日本に紹介するなど、独自の視点によるポップスの評論解説を手掛け、世に国内外の音楽シーンを紹介し続け今日に至る。現在も多くの新聞、音楽専門誌、一般誌のレギュラー執筆を持ち、NHK、FM横浜などのラジオ・パーソナリティや、日本音楽療法学会の理事を務めるなど、評論家生活54年、作詞家生活49年を迎えた。日本レコード大賞審査委員長を務めたこともある。アン・ルイス、藤井フミヤ、中森明菜、徳永英明などの作詞、マライア・キャリー、マイケル・ジャクソンなどの訳詞を手掛け、ヒット曲には「恋におちて」「六本木心中」「ランナウェイ」「涙の太陽」「センチメンタル・ジャーニー」などがある。